2020年9月19日

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本日は、初めての有料ネット配信にて、今季の”狂炎ソナタ”、わたしてきには”カンヨンソナタ”を観劇しました。今季の再演にあたっては、もうテユ君も出ないし、演出がアジアブリッジの時とは大きくかわっているバージョンだし、もう観なくてもいいかなと思っていたら、ユスンヒョンさん、わたくしたちの間ではS様といいますが、S様復活ということで、これは見逃すわけにはいきません。2017年には、インターパークのグローバルさえも早割があったし、YESも使えていましたので、7公演観ましたけれど、本日の視聴料よりもチケットはお安かったのでした。たぶん、当時の定価と本日の視聴料はかわりなかったのかも。ま、いいです。今ソウルにどうやったって行くことはできませんから、すっかりあきらめていたソウルの公演をリアルタイムで観ることができましたので。

このブログを以前からご覧になっている方ならば、ご存じのとおり、わたしは、この作品にけっこう思い入れがあります。トライアウトの時は見ませんでしたけど、アジアブリッジ時代の本公演、カンヨンソナタコンサート、シンズウエイブになってからの日本公演、昨年のソウル公演とけっこう見続けています。なんといっても、ムンテユ君の本公演の印象があまりに強くて、新たに公演を観るたびに過去のこととか違いとか、頭に思い浮かぶものが多すぎて、本日も集中してみれたのかどうかわかりません。できることなら、リアルタイム視聴購入者には、アーカイブを多少お安くして割引特典などつけて、再視聴可能にしてほしいです。

まずは、実務的なことを書きますので、興味ないようでしたら、このパラグラフは飛ばしてもよいです。リアルタイムで字幕付きっていうのは、なかなか大変ですよね。特に過去に同じ作品をやった俳優さんって、そのシーズンの台本になくても、支障なければ過去の公演のセリフのままだったりします。演技は、その場の雰囲気とか気分もあるので、セリフの間とか、とばしたりとかありますので、多くはないけど、ちょこちょこずれや違いがみられました。K教授が”血のついたバンパー”のセリフは字幕ついてませんでした。字幕と歌詞やセリフがあきらかに違うんじゃない?と思った箇所があり、Sが”それは、君が書いたのではない”と歌っているところが、”それは僕が書いたのではない”と字幕が出ていました。ここは、微妙なところで、アジアブリッジの時は、”僕”だったのですけど、去年のSMタウンの公演で、”君”にかわっていて、今日も一瞬聞こえた音は、”君”だったと思ったのですが。今回は、PCの横にレコーダーおいて録音しましたので、あとで聞きなおしてみようと思います。あと、JがSに数か月ぶりに電話をかけるところの字幕が早くですぎてましたけど、この1行目はたぶん誤訳だと思います。たしか”~か月ぶりに電話をかけた”になっていましたけど、ここは、Sの独白で”~か月ぶりに電話をもらった”とか”受けた”が正しいと思います。電話をかけただとJが主語だから、文脈おかしいです。今回からというわけではありませんが、シンズウエイブになってから、字幕がつくようになって、これは違うんじゃないかなとずっと思っているのが、”僕の音楽”の”伝えてしまえば、消えてしまうだろうか”と訳しているところは、”吐き出したら、消えてしまうだろうか”だとず~と思ってます。シンズウエイブのバージョンは、Sが楽譜を書けないという設定は出てこないのですよね。アジアブリッジのバージョンは、Sは美しいメロディーを口づさむことはできるけれど、楽譜に書き留めることができなかったのです。いつもJがそれを楽譜に書き起こしていたから、グロリアアルティスを受賞した曲も自分のものにすることができたわけですね。なので、”君の音楽”のこの箇所は、君から出てくる旋律がいいね、もし吐き出してしまったら消えてしまうの?という歌詞なのだなと理解していたわけなのですが。シンズウエイブのバージョンはSの楽譜を書けない設定がないので、この歌詞がぴんとこなくて、翻訳をかえているだろうかと常々思っているのでした。(←韓国語に自信がるわけではないので、ものすごい勘違いだったらすみません)これにからんで、君の音楽を”書き起こすよ”と訳していたところも、正確には”受けとめて書くよ”なんですよね。この違いって、アジアブリッジとシンズウエイブのJとS関係性の解釈の違いを大きく感じる部分なのでした。

実務的なところをもう少し書きます。シンズウエイブのバージョンといえども、日本公演と昨年の公演は同じでしたが今季、ちょこっと変わっていた部分がありました。まず、K教授とSの場面で、教授が縛られてませんでした。普通の会話にしてました。ここはアジアブリッジの時から昨年まで、SはKを縛っていて、一瞬ナイフさえつきつけたのです。この場面の変化は、Jを追い込んだKへの怒りと悲しみのSの姿がちょっと弱まった感じがしました。5楽章を書く前にJが”やめます”と言いましたが、前までは、”出ていきます”といって日記を脇にかかえていました。このあと、KはJを乱暴につきとばしながら、日記を読み聞かせるのですが、乱暴しなくなってました。この時に、Jが殺した人々が自分の楽譜の中で生きているというセリフがあるのですが、日本公演と昨年の公演では、5楽章を書く直前の落ち着いた時に行っていましたが、今日は、Kに追い詰められて吐き出すようにいうようになっていて、ここはアジアブリッジの時に近いものにもどしたのだなと思いました。書きながら、われながらものすごい枝葉末節なことを書いているなと思いますが、自分のための備忘録でもありますので、忘れないように書き留めておこうと思います。

それでは、やっとここから、本日の公演の所感です。この作品は、どうしてもわたしは、テユ君でしみついていますので、次の音楽とかセリフが頭に浮かぶとき、その声はテユ君です。これを振り払いながらみるのは、けっこう至難の業でした。でも、このバージョン、特にジチョルさんJの物語は、まったくテユ君と違っていました。これには、2つの大きな要因があるなと気づきました。1つは、アジアブリッジとシンズウエイブのバージョンは演出家が違うのですが、JとSの関係の描き方が大きく違います。描き方というより、二人の友情の重みですかね。シンズウエイブのバージョンでは、Sの存在がJにとって重くないのです。アジアブリッジのバージョンは、最初からJはいつもSの存在が彼の中にあるのです。SがJにかかわってない場面やSの名前がでない時でさえも、Jの中には常にSがいて、どうしても超えていけない存在、帰りたいけれど帰れない場所、今のJの存在理由がSであるというのが、ずっと背後に流れていたのがアジアブリッジのバージョンでした。まさに愛憎の存在。ここがシンズウエイブは、かなりあいまいで、電話がかかってきたりすると思い出すし、たしかに曲を盗んでしまったことのうしろめたさや、過去の友情関係を持つ一人の人ではあるけれど、いつも心にひっかかっているわけではなく、ある瞬間に思い出す存在みたいにみえます。なので、4章を書く前にSを呼び出す時の心情とか、Sに向き合った時の心持ちとか、ずいぶん違うなと思うのです。それゆえに、”僕の音楽”の響きが全くアジアブリッジとシンズウエイブでは違うのですよね。シンズウエイブの”僕の音楽”は、ひたすらに悲しいです。自らも死を覚悟し、友を失った悲しみに満ちています。でも~、この曲って、本当は、JがSと再会して、抑えていた思いがあふれだし、二人の幸せだったことや二人で過ごした時の思いをこめた、ある意味みちたりた音楽だったと思うのですよ。”カンヨンソナタ”を観てこの作品がよかったなと思ったのは、狂気の作曲家の物語ではなく、実はJとSの友情の物語だったということを思うと、どうして、シンズウエイブのバージョンはもっとJのSへの思いを大切に描かないのだろうと思わずにはいられないのでした。

長いので、ちょっとスペースあけます。ジチョルさんは、これまでずっとSを演じてきた方です。この方は、わりと長髪にしていることが多いのに、今回はばっさりと髪を短くしてますね。この辺にも、これまで自分がかかわってきたJと違ったものをみせたいという心意気を感じました。ジチョルさんJは、これまでのJに比べて、繊細で傷つきやすいという雰囲気を排除しようとしているようでした。あまり弱さや、揺れ動く姿をみせなかったように思います。こういうJは、初めてです。狂気の場面も少なったように思います。わりと普通~の青年でした。これが、ジチョルさんの演技力なのか、演出なのか、解釈なのかはわかりませんが、こういうJもありだとは思いますが、”カンヨンソナタ”ならではの感情のぶつかりあいとか、JとSの間の胸にせまっておしよせてくるものとか、作品の持ち味的には、ジチョルさんJは、弱かったと思います。悪くはないですし、楽しくはみたのですけど、”カンヨンソナタ”に期待するインパクトという点で、弱いのですよね。もしかして、3か月くらいの公演で、もう少し台本をちゃんとして、音楽のスピードを元にもどしたりしたら、新しいJとして確立することができるかもしれないけど。で、前のパラグラフで書いた大きな要因のもう一つは、ジチョルさんです。ジチョルさんって、やっぱり根本的にSなんだなと思いました。Sの目線でとらえたJを演じていたように思います。Sは、Jのことを本当に大切に思っていて、友情を感じていたけれど、Jの苦しみや自分をどう思っているかというJの嫉妬や劣等感というどうしようもない葛藤は理解できてなったのですよね。ジチョルさんJって、SがJは、こうなんだろうなと思っていたJを演じていたように思います。ジチョルさんJは、Sに対するずっと抱き続けていた劣等感や罪悪感が背中合わせにあって、今にいたっている奥深い思いが感じられないのです。そして、いつも、Sを思いながら暮らしていて、もどりたいのに、もどってはいけないと耐えている思いが感じられないのです。だって、Sは知らなかったですからね、それは。ジチョルさんはSが知っているJを演じたのでしょう。なので、わたしとしては、ジチョルさんJをみながら、本当のJは、もっとSを求めているし、Sを超えていけないことで葛藤しているよと思わずにはいられなかったのでした。

そして、S様ですね~。よかったです~。どんなに歌詞が早口言葉のようになっていようとも、セリフはかなりカットされていようとも、S様は、2017年のJTNで、テユ君Jを哀しくやさしくみつめていたSそのものでした。2017年の公演の時、ジチョルさんSもよかったけど、わたしは、スンヒョンさんSがとてもとても好きでした。これまで観た”カンヨンソナタ”の中で一番よかった公演の時のSがスンヒョンさんの時でした。この方は、とにかくJに対して、とてもとてもやさしいです。手放しにJを信じて、Jといっしょに作曲をすることに喜びを感じる人です。自分が、Jの葛藤の原因になっているなど少しも知らずに、Jへのあつい友情を注ぎまくりです。スンヒョンさんは、言葉の端々がやさしくて温かいです。アジアブリッジの時とは違っている設定がSが音楽を始めたきっかけですが、本日、スンヒョンさんが話すのを聞いて、初めて涙じわっときそうになりました。”自分もJのように音楽をしようと思った”という今まで、ジチョルさんでもアイドルKでも何度か聞いてきたセリフに、こんな風に思いをこめて心がみせることができるのだなとじ~んとしました。いろいろなものが変わってしまった”カンヨンソナタ”ではありますが、スンヒョンさんS、S様の存在は、最初からずっと大切に守り続けられているダミロ監督の思いをしっかりと感じさせるものでした。

最後に、K教授は、わたしは、今回は、キムジホさんでもいいかなと思っていましたが、イソングンさんでした。この方は、トライアウトからず~とご出演ですので、まさに”Mrカンヨンソナタ”とでもいうべき方です。彼が造形したKを超えていくのは難しいでしょうね。Kは、世間的には悪人だし、最初にみたら、すご~く悪い人なんですけど、回数を重ねてみると、それだけじゃないんですよね。K教授って、芸術至上主義なのです。この人は、すぐれた曲を書く才能はなかったけれど、すぐれた芸術を見極める目をもった人です。そういう人は、自分の才能をいやというほどわかっていながら、すぐれたものに対する渇望感が強く、どこにそのすぐれた才能があるかを見つけることもできるのです。だから、どうしても、その才能から生まれる芸術を手にしたいのです。Sは、K教授がお金のため、名声のためしかたなかったと言えというけれど、K教授にとっては、本当にお金や名声のためにJを利用したわけではないのです。彼がほしかったのは、至高の音楽。それをどうしたって自分は書く才能を持たないけれど、Jは殺人をすることによってその才能を目覚めさせてしまったことをK教授は知ってしまったから、それを見過ごすわけにはいかなったのです。ただの物欲の悪人でなく、芸術に心を奪われて良心をすてた罪人なのです。俗物的な悪でなく、芸術の奴隷としてのKという人物造形は、数々の悪人を演じてきた俳優さんでなく、イソングンさんだからこそにできたのだと思います。

シンズウエイブがアイドル投入や演出で、わたしの心にしまった”カンヨンソナタ”を大きく変えてしまったことは、悔しいものもありますが、作品は作品なので、面白く観れました。もうちょっと視聴料が安かったら、アイドルのも観てもいいかなと思うし、アイドルとスンヒョンさんの回があれば、観たかったなと思いましたが、ないので、本日限りとなります。リョウク氏の成長は、本当は確認したかったのですけどね。そもそもリョウク氏とスンヒョンさんの組み合わせはなかったのかな?ビジネスのためにアイドル大量投入はしかたないですが、リョウク氏は、彼らとは一線を画していることですし、本格派の俳優さんとの共演機会を作ってほしかったです。今回もヒットしてるみたいですので、この作品は、しばらく生き続けられるでしょう。あまり形をかえないで、本質がかわらないように、上演が続くことを祈ります。


9月20日追記

上記の記述に誤りがあります。9月20日のその2に記載してあります。